2006年1月アーカイブ

ネットコミュニティの多くは、ターゲットをよほど絞ったサイトでない限り、大人も子供も共存することになる。

しかし、多くの場合、大人と子供の利用スタイルには明らかな差異があるのは言うまでもないだろう。

もっとも、大人と子供の明確な線引きは無いが、小学生、中学生前後の年齢の児童たちと、20代半ばから30代以降の大人たちとは、一線を画すのは間違いない。

さて、私がこれまで関わってきたサービスを例にとってみると、子供たちの特徴として、以下のような行動が挙げられる。

・公の場にも積極的に露出する
・知らない人とも積極的に広くコミュニケーションを行う
・コミュニケーションの内容は、いたって希薄なものが大部分
・「共感」することを求める
・話す相手の年齢を気にする

年齢は、仕方のないことだろう。大人ならいざしらず、成長期の彼らにとって一歳、二歳の差は大きな違いを意味する。

広く積極的に活動する子供たちには勢いがあり、サービス提供側にとっては、一見盛り上がってよいように見える。口コミのパワーも凄いものがあるのだ。

しかし、その実、そのパワーの前に、無秩序な雰囲気を作り出しかねない。そして、大人たちにとって、それはあまり良い環境であるとは言えないだろう。

たとえば、全てのユーザーを対象とした公式の掲示板を設置することがあるが、そういう「公」の場所にも子供たちは積極的に書き込みを行う。その内容は、他愛も無いことから、悩み、自ら主催するちょっとしたイベントの告知、果てはマナーに反した行動を行った他ユーザーへの批判など、実にさまざまだ。

最後にあげた「批判」書き込みだが、これは非常に厄介だ。本人はマナーに反した行動だと思ってはいないが、よくよく見てみると実に一方的、かつ根拠のない書き込みであることが多い。

そして、それを見た子供たちは、「共感」を求め、第三者としての冷静な視点をもつことなく、書き込み者に同意し、応援し、批判対象となっている人間を、一緒になって批判し始める。

子供たちにとって、その根拠は必要ないように見える。皆が悪いといっていれば悪いのだし、皆が悪いといっていることに共感し、自らも批判の輪に加わることにより、自分が秩序を守る警察にでもなったような気持ちになる。仲間を作ることにより、自分たちの存在を認識する。

このこと自体が、運営側としては放置しておくべからず行為なのだが、その対応の仕方によっては、「悪い人を悪いと言って何が悪い」「悪いものを取り締まらず、なぜ正義であるはずの自分たちを取り締まる」といった批判が相次ぐ結果にもなりえるのだ。

それが盛り上がってしまえば、発端は違えど、前の記事で触れた「COOKPAD」のようなことにもなりかねない。

そして、それらの書き込みによるそういった雰囲気がひとたびできあがってしまうと、なかなか以前の状態に戻すことは難しい。そればかりか、さらに勢いを増してしまうことが多いようにすら思える。

異常とも思える盛り上がりを見せてしまった子供たちの批判や無秩序な雰囲気に対し、冷静な視点を持てる大人たちは、静かに見守ることになる。あるいは、意図的に関わらないように努めているのかもしれない。

一部、子供たちに正しいマナーを教えようと、果敢に注意を行うものもいるが、子供たちにとって、大勢に反した書き込みなど価値のあるものではなく、また、正義である自分たちに注意するものは全て悪であるかのごとく、まったく無視されるか、感情に任せた批判を頂戴してしまうかのどちらかとなってしまう。

だからこそ、大人たちは表(ここで言う公の掲示板など)には出てこず、それとは関係なく、自分たちの世界の中でこじんまりと楽しむ。

子供たちが悪いと言うのでは、けっしてない。年端も行かない子供たちのこういった行動は、その人生経験の少なさから考えても、当然であるともいえる。特に、インターネット利用の低年齢化している昨今、小学生も平気でホームページを作り、掲示板に書き込みをし、チャットで友達作りに精を出す。

ご自身が小学生の頃を思い出してみれば誰もが納得するように、子供たちは時に無邪気なまでの残虐性を秘めている。

だからこそ、コミュニティの運営には、大人と子供の棲み分けが必要となるのだ。子供たちを正しい方向に導いてやるのは、やはり大人の責任であり、コミュニティにおいては、運営者がその責を追わねばなるまい。

大人を対象とした運営は、ある意味簡単でもある。ある程度ユーザーに任せておいても、正しい方向性と、そしてしっかりと見守っている姿勢さえユーザーに示すことができれば、それなりの秩序は保たれるものだ。

しかし、それと同じ感覚で、子供たちにサービスを提供してしまってはならない。

利用規約に、18歳未満者の利用は保護者の同意が必要と書かれているサービスも多いが、もちろんそんな記述を子供たちが読むことは稀だろう。

それを、利用規約に記述するという行為だけで済ませてしまうのは、運営側の怠慢だろうし、もしくは目先の利益に目を奪われ、最終的には、それがサービスとしての成功を阻害することになるということに、気づいていないだけかもしれない。

また、たとえ親の同意があったとしても、一般社会におけるマナーや礼儀もままならない子供たち。家族と共に出席する親戚一同の集まりなどであれば、間違った作法や無礼な行為をしてしまう前に、親が注意することもあろうが、インターネットではそうもいかないのだ。

18歳未満者の利用を禁止していないコミュニティサービスにおいて、運営側が積極的に大人と子供の棲み分け、利用する区分を区別している例はあまり見ないように思う。

しかし、より大きなサービスになればなるほど、ある意味、大人たちへの配慮と、そして子供たちへのマナーの啓蒙という面からも、「棲み分け」を検討しなければならないのではないだろうか。
言うまでもないことだが、ネットコミュニティサービスに参加する一番の目的は、他のユーザーとのコミュニケーションである。

徐々に友達の輪が広がり、お互いの個人ホームページなどを訪問しあい、連日、挨拶やたわいもない言葉のやり取りを行う。そこに日記が書いてあればざっと読み、当たり障りのないコメントを残す。お互いにこの行為を繰り返すことを、俗に「コメント返し」と呼ぶ。

何かに悩んでいるようなら、共に悩み、相談にのる。もちろん全てのやり取りが、真剣に、親身な気持ちでなされるわけではないだろうが、多くの場合、たとえそれが偽善的、表面的なやり取りであったとしても、ユーザーはある一定の満足を得られる。悩みを吐露し、それに反応があるだけで充分に満足なのだ。

コミュニティサービスにおける多くのコミュニケーションは、実は、非常に希薄な関係で成り立っていることが多い。もちろん、中には現実社会以上に密度の濃いコミュニケーションも生まれることはあるだろう。しかしながら、基本的には見ず知らずのユーザーたちと文字によるやり取りのみで築かれる関係であり、また現実社会以上に多くの人との出会が、いとも簡単に行われるのだ。mixiなどの招待制、現実社会の友人たちとネットで繋がるタイプのコミュニティには当てはまらない側面もあるかもしれないが、現実と同様の深い関係を多くの「友達」たちと築くのは難しい。

そもそも現実社会においても、全ての人間関係が深い繋がりを持っているわけではない。仕事上のつきあいや、転居などで疎遠になってしまった友人など、普段は頻繁に連絡をとることのない関係というのは多いはずだ。だが現実社会であれば、何かしらの用件があったり、同窓会や帰郷時に集まるなど、たまに行われるコミュニケーションでも関係性が維持される。これがネット上の付き合いと違う点だ。


冒頭で触れたが、コミュニティサービスにおけるコミュニケーションは、挨拶やたわいもない言葉のやり取り、会話ともいえないような会話をベースとして進行する。そして、その積み重ねにより、自分のコミュニティ、自分の居場所が形成されていくのだ。

自分がいるべきコミュニティが形成されてくると、ユーザーは、よりそのサービスに依存し始める。そのコミュニケーションの多くは、相手に悪く思われない程度の表面的なやり取りであったとしても、そういった行為自体に麻薬のようにはまっていく。これは、コミュニティサービスにおける特筆すべき側面でもあるだろう。特にコミュニティ参加初期というのは、とにかく「友達」が増えること、自分の居場所ができること自体が楽しく感じられるものだ。自分が認識されることによって、そのコミュニティにおける自分の存在意義を見出せる。

そして、「友達」を増やすためには、「浅く、広く、当たり障りなく」といったコミュニケーションが基本となる。全てのユーザーと深い関係を築くには大変な時間と労力が必要であるから当然だろう。しかし、浅く、広く、当たり障りない関係というものが、コミュニティ参加中期以降、非常に大きなネックとなってしまうのである。

そのような関係を保つためのコミュニケーションは、連日のように繰り広げられる。お互いが、お互いのホームページを訪れる。訪問を受けた者は、お返しのコメントを残しに訪問する。そして、それを受けた者は、さらに……。

「友達」からのコメントがあれば、全ての人に返事をしたくなるのは自然だし、逆に、相手も返信があることを当然だと考える。数人程度なら楽しめる行為も、広げすぎてしまったばかりに予想外の時間、労力が必要となってしまう。見えない縛り、暗黙のマナーが、ユーザーを苦しめる。

しかし、日々の恒例行事を止め、一方的にその関係を絶つという行為は、「当たり障りのある行為」であり、それまで演じてきた自分の人格、築き上げたコミュニティを崩壊させてしまいかねない。

それゆえ、半ば義務的に、そして事務的にその「作業」を繰り返し続けなければならない。「友達」関係を維持するための作業。文字のやり取りだけとはいえ、友達を捨てるという行為は非常に罪悪感のあることだ。しかし、この関係を維持するためだけの作業にも疲れ果て、そして、人は一つの行動にたどり着く。良心の呵責から逃れ、この作業からも逃れられる手段。その一つが「コミュニティからの卒業」である。

卒業というプラスのイメージを口にしてはいるが、これは義務化されたコミュニケーション地獄から逃げる口実でもある。私がこれまで見てきたサービスでも、このような最後を迎えるケースは多くあった。理由はどうあれ、せっかくすごした時間を捨てるということは、なんとももったいなく感じてしまう。

さて、もちろん全てのユーザーが辞めていくわけではない。では、どういうユーザーがこれを乗り越えられるのか?

一つ例を挙げるとするならば、少人数のわりと小さなコミュニティを形成し、けっして急激に燃え上がることなく自分のペースで参加し続けることのできる、ネットとの距離感を心得た者たちだろう。

より長くコミュニティを楽しみたいと考えるのであれば、「ネットとの距離感」を意識して参加するのが良いのかもしれない。
アンチSNS宣言という記事を拝見した。

非常に興味深い切り口だが、最も考えさせられたのは「インターネット上では等価」という言葉。

どのような人がやっているホームページであれ、ブログであれ、インターネット上の価値は、全て等しくあるべきだという意味だ。

言うまでもないことかもしれないが、そもそもインターネットは、これまで独占的にテレビやラジオ、新聞などのメディアに支配されてきた「情報発信」という権利を、世界中の誰もが等しく手に入れることを可能にし、さらにインタラクティブな情報交換という新しいメディアのあり方を実現したと言う点において、非常に革新的だ。

いまや、極端な話、小学校に上がりたての児童であっても、情報発信の権利を平等に行使できるのだ。

これは、近代社会において特筆すべきことであり、一般家庭にも広くインターネットが広がった昨今、その価値は特に強く感じられるのではないだろうか。

もちろん、それぞれのサイトに掲載されている情報は千差万別であり、有益なもの、無益なもの、多くあると思う。しかし、それは全て「自分にとっての価値」にすぎない。だからこそ、自分にとって必要な情報の取捨選択能力こそが、インターネットを利用する上で非常に重要となる。

自分にとって無益であっても、ある人にとっては有益なものになりえる。自分が有益だと思った情報は、誰もが自由に発信することができる。そして、全ての情報は、全てのインターネットユーザーが、等しく閲覧することができる。これこそが、開かれた世界「インターネット」の大原則ではないだろうか。

しかし、いわゆるSNSは、その大原則に大きく反している。

投稿にはそれぞれ閲覧するための制限がかけられ、中でも招待制SNSなどは、「情報を発信すること」もまた、選ばれた人の特権である。

開かれたインターネットの世界での、閉じられた世界。そして、いわば特権階級だけが利用できる招待制SNSというサービスは、大きな矛盾をはらみながらも、それゆえに大きな魅力を人々に与えているのかもしれない。
昨今、SNSに代表されるように、実名や本人顔写真での利用を推奨するサービスが増えてきている。

実名での利用は、利用者それぞれに責任が発生し、それによって安心感を得られる。より健全なコミュニティが形成されるだろう。しかし、その反面、軽率な行動はできなくなり、利用への障壁は確実に高くなる。

インターネットにおけるコミュニティとは、本来、実社会とは離れた場所に存在し、あくまでバーチャルな世界だ。日常のしがらみに関係なく楽しめる場所であり、仮想空間でのもう一人の自分を楽しめる場所である。また、そうあるべきだとも考える。

もちろん、その気軽さゆえに、インターネットでのコミュニケーションによって様々な問題が生じているのは、これまでも言及してきた通りなのだが、しかし、そういう性質がなければ、ここまでインターネットが普及しなかったことは間違いない。

ネットでのコミュニティにまで、現実の面倒な人間関係を持ち込み、コミュニケーションを楽しむというのは、私からすれば、いささか奇妙な感じさえ受ける。用件ならば、電話やメール、メーリングリストなどを用いればよい話なのだから。

もっとも、完全クローズドなコミュニティであれば、違った楽しみ方もあるとは思う。わざわざ直接連絡を取るほどのこともない他愛も無い話であれば、特定の誰かに向けたコミュニケーションツールではなく、ネットでの掲示板など、共有のスペースに書き込むほうが気楽だし、身内に聞いてもらいたいちょっとした話なども、日記という媒体を通しての方がやりやすい。

しかし、それはオープンなコミュニティには不向きであるし、実名コミュニティの多くは、クローズドを目指しながらも、完全ではない。

また、それらのサービスの根幹である、その実名という基本理念においても、成功しているサービスもあまりないようだ。SNSの代表格であるmixiなども実名を推奨しているが、仮名での利用者の方が多いのではないだろうか。

それでも、実名で利用しているユーザーが存在するのは確かだが、個人情報に関するトラブルが多く発生している昨今、実名、本人顔写真を登録して利用するというのは、特に初心者ユーザーにとって、かなりのリスクを背負うことになる。

ある程度、ネットにおける個人情報の扱いに関する危険性を知っている者なら別だが、サイトの方針に何の疑いもなく素直に従ってしまったがため、思わぬトラブルに巻き込まれないとも限らないのだ。

実名推奨サイトを匿名で利用しろというのではないが、少なくとも、実名や顔写真を晒すことで、どのような危険があるのかを認識することは重要だ。

これは、利用者だけでなく、サービス提供側にも言えることである。そのような方針での運営において、どのようなリスクがあるかをしっかりと認識し、また、それを推奨するからには、ユーザーをどのように保護するかまで対策した上でサービスを提供する義務があるだろう。

「実名で利用してください。でも、個人情報に関連するトラブルは自分で責任を持ってください。」

それではあまりにも無責任だ。しかし、そういうスタンスのサービス提供者は多い。

実名利用というのは、ネット先進国韓国ではポピュラーなサービス形態ではあるが、韓国と日本には、国民番号の存在という決定的な違いがある。韓国でのそういったサービスの登録には、国民番号の登録が必須なことが多く、本当の意味での「安心」がある。うわべだけをまねして、まったく同じような軌跡を描いてサービスが発展していくとは到底思えない。

国民番号の登録なしに、実名サービスを普及させていくのは、かなりの困難が予想される。もう何年もしないうちに、ほとんどのサービスは淘汰されていくのではないだろうか。

今後、実名コミュニティはまだまだ出てくるだろうし、前述した障壁を乗り越えられさえすればさらに伸びてくる分野であろうが、根本的な問題を抱えたまま、安直にサービスを利用・提供するのは、大変危険だということを記しておきたい。
        

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